【飛躍のヒント】生きる目的を思い出す

坂本夏子です。

ピッタリ36年前の7月、
私は、広島市に引っ越しました。

就職した会社が広島にあったからです。

その後、広島で転職し、
4年の東京勤務の時を除き、
広島市民歴、32年です。

広島は、人生で最も長く
住んでいる街です。

今日は、きのう見たTVから、
広島についてマジメな話をします。

地元の放送局のドキュメンタリーで、
戦後の広島の復興・発展の土台を
作った市長のことをやっていました。

私にとっては、
初めて知ることばかりで、
見入ってしまいました。

その人の名は、
濱井信三(はまい しんぞう)。

原爆投下時は、広島市の一介の
課長だったのですが、市の幹部が
たくさん亡くなってしまったため、
その年の12月に、
助役に抜擢されます。

そして2年後に、選挙で選ばれた
初めての広島市長になります。

当時の広島市は、あったものが、
ほぼ消えた状態から、
街を作り直す時期でした。

当然、何をするにも、
たくさんのお金を必要とします。
でも、お金は乏しい。

国に支援を求めても、日本中が
焼野原になっている中で、
広島だけを特別扱いできないと、
つれない返事。

で、濱井市長は何をしたか?

新憲法の95条にあった、
「特定の地方公共団体にだけ
適用される法律(特別法)」に
目をつけます。

そして、

広島市だけのための特別法を
国に作ってもらい、
その法律に基づき、広島の復興を
図るという構想を練ります。

その法律を生み出すために、
濱井さんはものすごいエネルギーで
仕事をし、住民投票による
90%を超える賛成を得て、

広島平和記念都市建設法が
できました。

公布・施行は、
原爆投下からピッタリ4年後の、
昭和24年(1949年)8月6日。

日本初の特別法です。

今の平和記念公園、平和記念資料館、
平和大通りなどは、
この法律のおかげでできたそうです。

平和大通りというのは、
通称、100メーター道路といい、
東西にまっすぐ伸びた、
幅100メートルの立派な道です。

ちなみに、
プロ野球の広島カープの
優勝パレードは、
この道で行われます!!

で、私は、昨日の番組を見て、

今や、広島市民にとっても、
国内外から訪れる人々にとっても、
あたりまえのように存在する、
広島を象徴するモノが、

さらに、

広島という街の世界における
存在意義が、

原爆で生き残った、一公務員であった
市長の発案と、多くの人々の
力によってつくられた、
尊いものであった、

ということを初めて知ったのです。

「出来上がった」広島市に移り住み、
ノー天気に暮らしていた私は、
なんだか、感動しました。

そして、
広島平和記念都市建設法の
最初のことばが力強いのです↓↓↓

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《目的》
第1条

この法律は、
恒久の平和を誠実に実現しようとする
理想の象徴として、
広島市を平和記念都市として
建設することを目的とする。

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私は思います。

これは、濱井市長の生きる目的
そのものだったはず、と。

彼が生き残った意味は、
そこにあったと。

生きる目的を明確にし、
それが心からやりたいことであると、
人は、それに向かって
まっしぐらに生きます。

ホンモノの楽しさや充実感が
そこから生まれます。

平和都市の建設、みたいな、
崇高かつ壮大なものでなくても、

あなたにも、
そのために生まれてきた、という
目的や使命があるはずです。

そしてそれは、
過去のつらかった体験や
いやだったデキゴトの
本当の意味に気づくことで
思い出します。

今、私のコーチングを
受けられているAさんは、
両親との葛藤の記憶をやり直す
ことで、

=================

対立から愛を生み出す
コミュニケーションの方法を伝える

=================

という目的に気づかれました。

その結果、
これまでだったら、

「こんがらがってしまって、
ストレスでへとへと」

だったであろう場面で、
相手から納得のYes を引き出す
コミュニケーションをとるように
なっておられます。

あなたは、どのような目的を持って
生まれてきましたか?

それに気づく準備のほどは
どのくらいですか?

もしあなたが、そんなことに
興味があるなら、
私のコーチングを知っていただく
機会を、近いうちにご案内します。

ではまた!

坂本 夏子

ことば屋&人事屋

LABプロファイル®
マスターコンサルタント
トランスフォーメショナル
コーチ®
人事コンサルタント