坂本夏子です。
昨日のメール
「伊勢雅臣さんに出会う」の
続きです。
このところ、
日本に敵対的な行動をしかけてくる
近隣諸国に対し、
私は怒りをつのらせていて、
そういう自分に戸惑っていました。
そんなときに
日本のすばらしさをたっぷりと
教えてくれる伊勢先生に出会ったのです。
そしてオンライン講座
【世界に誇る「和の国」の教育】
に参加します。
明治の日本が輩出した
偉人たちのことを学びました。
では、
そういう人を輩出した日本の
教育の原動力は何だったのか?
これが今日のテーマです。
伊勢先生の講義によると、
江戸時代の日本の就学率は世界一。
幕末、嘉永年間(1850年頃)、
江戸の就学率は70-86%。
当時、世界の覇権を握っていた
英国の大工業都市では、
20-25% (1837年)
ソ連・モスクワは、
1920年でも20%。
日本は世界に冠たる教育国家
だったわけです。
実際、幕末に日本にやってきた
プロイセン海軍の
ラインホルト・ヴェルナー艦長は
こう言って驚きます。
(プロイセンは、
現在のドイツ北部からポーランド西部に
またがる王国)
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日本では召使い女が
たがいに親しい友達に
手紙を書くために、余暇を利用し、
ぼろをまとった肉体労働者でも、
読み書きができることで
われわれを驚かす。
民衆教育について
われわれが観察したところによれば、
読み書きが全然できない文盲は、
全体の一パーセントにすぎない。
世界の他のどこの国が、
自国についてこのようなことを
主張できようか?
(R・ヴェルナー『エルベ号艦長幕末記』)
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当時のヨーロッパでは、
文字が読めるのは、牧師、官僚、
大学の先生、大商人など、
社会の上層部に限られ、
一般の人は文字が読めなかった
とのこと。
日本は違いました。
では、どのように
日本人は読み書きを
学んだのでしょうか?
寺子屋です。
地域の私塾。
お寺のお坊さん、神社の神主さん、
商家のご隠居さんなどが、ほぼ、
ボランティアで、近所の子供たちに
文字を教え、学問を教えました。
当時日本には、
16,000もの寺子屋がありました。
人口は、今の約四分の一。
今の日本で小学校の数は
約27,000とのことですから、
江戸の日本で、どれだけ
寺子屋が多かったかがわかります。
その土台をもとに、
明治政府は一斉に小学校をつくり、
明治8年には24、000校にも
なりました。
寺子屋で教えられた
学問の中心だったのが、
「論語」の素読。
論語とは、
孔子とその高弟の言行を
弟子達が記録した書物です。
私の理解は、
「人のあり方を短いことばで
説いたもの」。
読んだことありますか?
私はありませーん。
で、
「素読」とは声に出しての丸暗記。
お師匠さんに教えられ、
こどもたちは、
夫子(ふうし、先生)の道は
忠恕(ちゅうじょ)のみ
といった、
難しいことばを覚えていきます。
「忠」=「中と心」=まごころ
「恕」=
自分の心の「如く(ごとく)」
人の心をおしはかる。
「まごころから思いやること」
そうやって、
人への共感の大切さを
こどもたちは学んでいったのですね。
さらに、
意味がわからなくても、
小さいうちに音で覚えて暗記するのは、
脳の仕組みから理にかなっています。
大きくなって
人としての経験が増すと、
やがて脳に蓄積されたことばと
経験が結びつき、
論語のあのことばは、
こういう意味だったのか!
と腑に落ち、
それがその人の心に定着し、
倫理観や智恵が育ちます。
江戸時代すでに、
そのようなすぐれた教育が
日本では行われ、
それが明治日本の躍進を
もたらしました。
すごかったんです、日本は。
あと一回、
明治日本の教育について書きます。
参考:
明治時代の人口推計によると、
1872(明治5)年の日本の総人口は、
3,480万人。
(内閣府
平成16年版少子化社会白書)
ではまた!
坂本 夏子
ことば屋
LABプロファイル®
マスターコンサルタント
トランスフォーメショナル
コーチ®
#448